著者:夢野久作 1933年5月に春陽堂から出版
斜坑の主要登場人物
福太郎(ふくたろう)
工業学校を卒業し、炭坑で小頭の仕事を務めている。
お作(おさく)
福太郎の妻。福太郎より四、五歳、年上。
源次(げんじ)
炭坑で仕繰夫(しくり:坑内の大工)の指導役を務める。
吉三郎(きちさぶろう)
坑道から死者を運びだすときに、場所を呼ぶ係を進んで務める。仲間から「アノヨの吉」と呼ばれている。
()
1分でわかる「斜坑」のあらすじ
福太郎は炭坑で小頭を務めています。
彼の妻はお作といい、もとはうどん屋で働いていた女でした。
お作は当時、大勢の男を手玉にとり、特に坑内の大工をしている源次からは、大金を巻きあげたものでした。
また、福太郎は、仕事のことでも源次に恥をかかせたことがありました。
源次は福太郎をうらんでいるはずですが、態度には出しません。
そんなある日、坑内での仕事を終えた福太郎が斜坑をのぼっていくとき、連結器のはずれたトロッコが彼のほうへ逆走してくる、という大事故が起きたのです……。
夢野久作「斜坑」の起承転結
【起】斜坑 のあらすじ①
その炭坑には、奇妙な風習がありました。
坑内で死者が出ると、その遺骸をトロッコに乗せ、ゆっくりと出口に向かいつつ、坑内の現在地の名前を呼びあげて、死者に言いきかせるというものです。
死者の魂が坑内にとどまらないようにするための風習です。
今日も、亡くなった炭鉱夫の死体が運びだされるのにあわせて、場所を呼びあげる吉三郎のかん高い声が、坑内に響きわたります。
その声を聞くと、小頭を務める福太郎は、まわりの暗闇が自分の命を縮めようとしている気がして、ゾッとするのでした。
福太郎は工業学校で採鉱を学び、学校を出てから三年間、この炭坑で小頭として働いています。
彼の妻はお作と言います。
福太郎より四つか五つ年上の女です。
彼女は三年ほど前、炭坑の下の町に流れてきて、うどん屋で働きはじめました。
そして、大勢の男を手玉にとったのです。
なかでも、仕繰夫(坑内の大工)の源次が彼女にぞっこんになったのをよいことに、相当のお金をむしり取りました。
お作はそうやって貯めたお金を持って、世間知らずの福太郎のところへ、押しかけ女房となって入ったのでした。
これだけでも、福太郎と源次の間には確執が生まれそうですが、それ以外にも問題のタネがあります。
福太郎は頭のデキはよくないものの、手先が器用で、工業学校も本当は建築のほうへ行きたかったくらいです。
その福太郎が、炭鉱の大動脈ともいうべき斜坑の入り口を、本職の源次が風邪をひいている間に、修繕してしまったのです。
それはとてもしっかりした仕事だったので、福太郎のことは炭鉱中に知れ渡ることとなりました。
同時に、源次に仕事の上で恥をかかせることにもなったのでした。
[ad]
【承】斜坑 のあらすじ②
源次にとっては、自分が入れこんだ女を福太郎に盗られ、仕事の上でも福太郎に恥をかかされたわけです。
皆は、源次が福太郎に復讐するだろう、と見ています。
しかし、源次はむしろ福太郎に媚びへつらって見せるのです。
人の好い福太郎も、またお作も、源次が復讐を企てているなどとは、思ってもいない様子です。
そんなある日のこと、一番方の仕事が終わった福太郎は、斜坑の入り口で、ぼんやりと源次のことなど考えていました。
その源次は、十台のトロッコの列のまん中あたりに乗って、斜坑を登っていきます。
坑道の壁からは、60度の熱いお湯が漏れてきます。
先月の大爆発の火が、奥の炭層のなかで、まだ燃えているせいです。
こんな危ないところからは転職しようかと福太郎は思い、斜坑を登りはじめました。
曲がり角まで来たときです。
前方に赤い光が見えたかと思うと、ものすごい衝撃を受けて、彼は意識を失ってしまったのでした。
気がつくと、福太郎は自分の納屋に寝かされていました。
ぽかんとして、なにもわかりません。
実は、十台つながったトロッコの、途中の連結器のピンがはずれ、四台が斜坑を逆走して下っていったのです。
そして、福太郎がいた曲がり角で脱線し、壁に当たって、大量の硬炭(ボタ)が落下したのだそうです。
さいわい、トロッコが重なって、福太郎のまわりに隙間ができたので、助かったのでした。
トロッコの連結器のピンがはずれる、という事故は、珍しくもないのです。
そのため、トロッコに乗っているだれかが、福太郎に危害を加えるために、わざとピンを抜いた、などということは、誰も考えませんでした。
また、福太郎は事故のせいで記憶があいまいになっており、あのとき、源次がトロッコに乗っていたことを覚えていないのでした。
【転】斜坑 のあらすじ③
お作は、夫を救出してもらったお礼と、夫が無事だったことのお祝いを兼ねて、皆に冷酒をふるまいました。
それが呼び水となって、皆が酒や肴を持ちより、狭い納屋のなかで宴会が始まりました。
だれもが福太郎に酒を注ごうとします。
なかでも源次はしつこく酒を勧めます。
下戸に近い福太郎は、なんとか断ろうとします。
そこへお作が助け舟を出し、「親の遺言だから」と源次をしりぞけました。
そしたら、ほかの者がかえって福太郎に酒を無理強いするのでした。
福太郎はたちまち顔をまっ赤にして、押入れの前でひっくり返ってしまいました。
そのあとも、酒盛りは続きます。
酔っぱらったお作が、袖を肩までまくり上げ、白い腕を見せて、皆に愛嬌をふりまきます。
そのうち、うどん屋時代に得意としていた道行き踊りを踊ろうとします。
その相手として、源次の名を呼ぶと、皆はしんとしてしまいました。
うどん屋時代、源次とお作の間になにがあったのか、全員が知っているのです。
よりにもよって、ここで源次と踊ろうなどとは、と思われたのでした。
気まずい沈黙のなか、お作だけは陽気に源次を探します。
その源次は、押入れの前の屏風の陰で、小さくなっていたのでした。
彼の目の前には、酔って苦しむ福太郎の姿があります。
福太郎はうなされています。
事故の直前に坑道の壁に見たお湯のしたたりが、ありありと、かつ、ひどく大げさで奇怪な様子となって、眼前に再現されるのでした。
それはものすごく気味の悪い映像でした。
福太郎のそんな苦しみも知らず、お作は、アノヨの吉といっしょに道行き踊りをはじめます。
福太郎を見つめる源次は、彼が死んでくれるといいのに、と思っています。
[ad]
【結】斜坑 のあらすじ④
福太郎の視界には、まだ暗闇の映像が続いています。
やがて赤い光が見えました。
逆走してくるトロッコの車輪が、軌道をこすって起こる火花の光です。
福太郎の目には、事故の様子が、きわめてゆっくりとしたスローモーション映像として再現されます。
一台、また一台と、トロッコが逆走してきて、曲がり角でひっくり返り、そこへ次のトロッコが突っこんできます。
トロッコは飛んで、壁にぶつかり、福太郎の上に落ちるときに、偶然にも二等辺三角形のすきまを作ります。
そのすきまに彼は保護されるのです。
おびただしい石の粉が、彼の上にふりそそぎます。
さらに、天井裏から大量の硬炭(ボタ)が落ちてきて、さらにはおびただしい土もふりそそぎ、彼を生き埋めにしたのでした。
福太郎は一瞬意識を失いました。
その一瞬は自分がそう感じただけで、実際にはかなり長い時間でした。
隙間のなかでランプの灯は消えず、まつげの上を流れ落ちる赤い血を照らしていました。
どれだけたったか、トロッコの下のほうの土が崩れ、人間の手が見えました。
少しすると穴が開き、現れたのは源次の顔でした。
源次は身動きしない福太郎の顔にじいっと見入り、次にはニヤニヤと笑って、こう言ったのでした。
「おれは源次だ。
わかったか。
きさまはおれに恥をかかせた。
だからこうして引導を渡してやったんだ。
お作はもうおれのものだ。
あの世から見ているがいい。
おれがお作をどうするかを」福太郎は全身をゾクゾクとふるわせ、源次の顔をグッとにらみつけました。
頭の痛みが消え、幻も消え、そこは自分の納屋でした。
皆が遠巻きに自分を見ています。
自分の両腕も白い浴衣も血まみれです。
手にしているのは、血まみれの鉄鎚。
かたわらの床には、頭を割られた源次の死体がころがっています。
福太郎は、駆け寄ってきたお作を抱き寄せ、なんだかとても気分がよいのでした。
夢野久作「斜坑」を読んだ読書感想
この作品の読みどころは、炭坑内の描写だと思います。
炭坑のなかのくらさが実に効果的に描かれていて、そこはまるで地獄の底のように見えてくるのです。
炭坑内の描写は、主に事故の前と事故の後にわかれます。
事故の前では、死体を坑道から運びだすときの、薄気味悪い呼び声にまず度肝をぬかれます。
そして、主人公が事故の直前に見る壁の水漏れ、その熱さ、そして壁の内側で火が燃えていることなどが、いよいよ地獄の劇場の幕開けを告げるのです。
そして事故の後では、ぐでんぐでんに酔っぱらった主人公が見る幻覚映像として、事故当時の様子が再現されるのです。
その映像はリアルではなく、かなり誇張され、時間軸をのばしたスローモーションの映像です。
読んでいると、幻想的な映画のように感じられます。
怖くて、その一方で美しいとさえ感じられます。
こうした炭坑内の描写そのものが、この作品の値打ちなのだと思うのです。
さて、ではストーリーはどうなのか、と言いますと、ストーリー自体は単純といえば単純です。
女を盗られ、仕事で恥をかかされた男が、主人公に仕返しをする、それに対して主人公はやり返す、という構図です。
まことに単純ですが、それゆえに、読む者の共感を得やすいんじゃないでしょうか。
そして、共感するからこそ、ラストでは崖から突き落とされたような衝撃をおぼえずにはいられないのでした。