著者:坂口安吾 1947年12月に山根書店から出版
青鬼の褌を洗う女の主要登場人物
「私」(わたし)
名はサチ子。遊ぶことが好きで貧乏が嫌い。小さい頃から母に妾になるよう言われ、品物のように大事にされるが、隠れて複数の男と関係している。終戦後は久須美の妾になるものの、やはり浮気する。
母(はは)
「私」の母。空襲で死亡。自身も妾で、旦那は大きな商店の主人。旦那以外にも男が数人いた。
久須美
「私」の旦那。戦時中「私」が徴用された会社の専務。背は六尺、獅子鼻でどんぐり眼、白髪の醜男。
エッちゃん(えっちゃん)
「私」が体を許した男の1人。現在は力士で、四股名は「墨田川」。有望だが粘り弱く、あっさり勝負を投げてしまう癖がある。病院で「私」と再会し、後に駆け落ちする。
ノブ子(のぶこ)
「私」と同居する2歳年下の娘で、飲み屋の雇われマダムをしている。処女。久須美の秘書・田代に妾になるよう言い寄られている。
1分でわかる「青鬼の褌を洗う女」のあらすじ
「私」(サチ子)は小さいころから母に金持ちの妾になるよう、そのために処女を守るよう言われていましたが、隠れて何人もの男に体を許していました。
その後、空襲で母と家を失った「私」は、徴用先の会社の専務・久須美の妾となります。
久須美を愛しつつも「私」は浮気したり、昔の男と逃避行したりしますが、結局は久須美の元に戻ってきます。
そして互いに孤独を埋め合いながらも、刹那的かつ空虚な日々を気だるく過ごしていくのです。
坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」の起承転結
【起】青鬼の褌を洗う女 のあらすじ①
「私」は最近、自分の中に母を発見するたびすくんでしまいます。
母は戦時中空襲で死にましたが、窒息だったので死体は全然焼けておらず嘘のようで気味が悪くて、その薄気味悪さを思い出すからです。
自身も妾である母は「私」を妾にしたがりました。
小さいころからそれを「私」に言い含め、高価な売り物となる処女を守らせ、品物のように大事に愛しました。
「私」が徴用されると分かったときなど、女が男と一緒に働いたらすぐに妊娠してしまうとひどく慌てました。
しかし「私」は品物として愛されるのを嫌がり、母を愛しませんでした。
「私」は遊ぶことが好きで貧乏が嫌いだったので、母は金持ちで鷹揚で、そしてなるべく年寄りの旦那を探すよう勧めます。
「私」が女学校の同級生・登美子からゴルフに誘われると、ゴルフが特権階級の遊びだと知っていた母は、高価な用具を買い与えてくれますが、「私」が実際に知り合ったのは映画俳優でした。
彼はまず「私」を口説き、断られると登美子を口説いて交際を始めます。
登美子は彼と泊まりに行くときなど、「私」にアリバイ作りを頼み、「私」もまた彼女にアリバイ作りを頼みましたが、その理由は彼女に教えませんでした。
ところで「私」の母は、「私」の弟が航空兵として志願したのを、引き留めたいのに表面は嬉々として送り出したり、「私」の妹が盲腸炎の手術後二十四時間水を飲んではいけないのに、水を飲ませて死なせたりしていました。
そのせいで「私」は母に愛されるたびに殺されるような寒気を覚えており、母に隠れて複数の男に体を許していました。
名前や年齢、知り合った経緯は関係なくただ好きだったからで、彼らが出征する前に許しました。
それは彼らを励ますという意図ではなく、後々付きまとわれるのが嫌だったからで、招集されてもすぐ帰ってきそうな病弱な男には、たとえ美青年であっても許しませんでした。
「私」は男に肩を抱かれたり手を握られたりしても振りほどきません。
面倒だからです。
キスもたまにさせることはあります。
けれど体を要求されると「いつかね」と適当にはぐらかし、そして男のことを忘れてしまいます。
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【承】青鬼の褌を洗う女 のあらすじ②
徴用された会社で、「私」は平社員、課長、部長、重役と立身出世の順序通りに口説かれましたが、「私」は重役にだけ好感を持ちました。
若い男の肉情を嫌っているわけではなく、教養とか文化とか精神的な何かが低いのが嫌だったのです。
一方、母は徴用で動けない私を置いて、大きな商店の主人である旦那が疎開する山の別荘の近くに、自分も疎開していました。
母は一週間に一度見回りと称して山から降りてきましたが、本当は若い男と密会するためで、男を家に引き入れて泊めることもありました。
空襲の夜も母は男をつれてきて酒を飲み、「私」は料理を作る女中に付き合って起きていました。
空襲が始まると、あちこちで火の手が上がっているにもかかわらず母は酔っ払い、同じく酔っ払った男に襲われそうになった「私」は家の外に飛び出します。
辺りは真っ赤な幕でした。
ここから無事脱出できたら、新鮮な世界が開かれるような期待に興奮しながらも、「私」は女中とともにどうにか逃げのび、焼け残った国民学校に避難します。
女中は富山の田舎に帰ると言い、「私」も母の死去を報告に行くついでに母の旦那のところに疎開しようかと迷います。
しかし親の代理のように束縛される不安がある上、そこに行くために避難民列車に乗っていくのは「私」にとって耐え難いものでした。
というのも、避難所では毎晩男たちが入れ代わり立ち代わり「私」に夜這いを仕掛けていて、女中が撃退してくれたものの、それでも昼にならないととても眠れなかったのです。
男たちに対する「私」の態度や親切が、彼らを勘違いさせる要因でした。
そんな折、徴用先の会社の専務・久須美が「私」を探しにやってきて、これ幸いとばかりに「私」は彼に引き取られます。
久須美は当時56歳、背丈が6尺あって針金のような見た目で、獅子鼻でドングリ眼の醜男でしたが「私」には可愛く見えました。
終戦後、久須美は「私」に家をもたせ可愛がってくれますが、「私」の本性も見抜いていて、浮気してほしくはないけれどもしするならばバレないようにしてくれと頼みます。
実際「私」は複数の青年と浮気するものの、「私」が本当の媚態を見せるのは久須美だけでした。
盲腸炎で激痛に襲われているときも、「私」はそれをおくびにも出さず久須美を愛撫し、そのために重症化してしまいます。
【転】青鬼の褌を洗う女 のあらすじ③
入院先で「私」は墨田川という力士に出会います。
彼は出征前に体を許した男のうちの1人・エッちゃんでした。
早速彼は「私」を口説き、断られた後も時々会いに来るようになります。
エッちゃんは有望な力士ですが、粘り抜く執拗さがなく、あっさり勝負を投げてしまう悪い癖がありました。
相撲というのははっきり勝負がつく残酷な世界で、それゆえに「私」はエッちゃんが勝ったときは褒める気にはならず、逆に負けたときに慰めたくなりました。
あと少しで入幕という場所で、全勝したら一緒に泊ってあげると「私」はエッちゃんを励ましますが、彼は見事に全敗してしまいます。
そこに却っていじらしさを覚えてしまった「私」は、エッちゃんを無理やり温泉旅館に連れ出して一晩を共にします。
翌朝になっても二人は帰ることなく、そのままだらだらと長逗留することになります。
ところで、「私」の家にはばあやと女中の他にノブ子という2つ年下の娘が同居していました。
彼女は「私」と同じ会社の事務員でしたが、戦災で肉親を失い、今は久須美の秘書・田代が内職がてらに開いた飲み屋で雇われマダムをしていました。
長逗留でお金が足りなくなった「私」はノブ子にお金を届けてもらおうとしますが、彼女のみならず田代も「温泉旅行」と称してやってきます。
二人は旅館に泊まりますが、ノブ子は田代と同じ部屋になるのを嫌がりました。
実は田代はノブ子を妾にしたいと思い、ノブ子も憎からず思っていたのですが、田代に体を許していませんでした。
そもそも、田代がノブ子を「私」と同居させたのも、「私」の浮気っぽさをノブ子に伝授させたい思惑があったからで、それほどに田代はノブ子を愛していました。
その夜、ノブ子と田代の苦悩をきっかけに、「私」はエッちゃんと口論になります。
「私」を諦めて相撲に専念する。
けれど「私」を思い出さずにいられるか分からない。
エッちゃんは「私」を試すように言いますが、「私」は過去は思い出さないとにべもありません。
捨て鉢になったエッちゃんは「私」に心中を迫るものの、強く拒絶され、外の闇に去ってしまいます。
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【結】青鬼の褌を洗う女 のあらすじ④
夏が来て、「私」たちは海岸の高台にある旅館で暮らし始めます。
久須美と田代はそこから東京へ通い、「私」とノブ子は海水浴を楽しみます。
「私」は好きな人が自分に似合うものを見立てて買ってきてくれるのが好きでした。
久須美は「私」のそういう気質も知っていて、洋服やら何やら選んでくれます。
そうした衣装をまとうとき、「私」は何より生きがいを感じることができました。
その生きがいに対して、どのように感謝すればよいか「私」は迷います。
また、エッちゃんと別れたとき、温泉から帰る汽車の中で「私」は高熱を出し、東京へ戻ると数日間寝込んでしまいました。
熱の合間「私」がふと目覚めると、久須美は枕元にいて、氷嚢を取り換えてくれたり汗を拭いてくれたりしました。
その目には特別な光も感情も見られないのに、「私」の心に深く沁みてきて、とても安堵したのです。
そういうこともあって、浮気をしないことが感謝の一つの表現だと「私」は考えますが、久須美はエッちゃんが好きなら結婚させてあげると言い始めます。
久須美の魂は孤独だと、「私」は思います。
なので、最愛の人の幸せのためならならば自分は孤独でもいい、もともと人間はそんなものだと考えることができるのです。
しかし彼が身を引こうと考える理由はもう一つあるとも推測します。
「私」が自身の意志で逃げることを恐れるあまり、彼の意志で逃がした方がよっぽどいいと思っているのです。
彼の観念の生活の中で、「私」は「最愛の女」という観念を割り当てられた、ていのいいオモチャの一つであることを自覚していました。
「私」は将来野垂れ死にするだろうと考えていて、あの国民学校の避難所の、避難民が赤鬼青鬼のようにごちゃごちゃしているのを思い出し、どうせ野垂れ死ぬならあそこで死にたいと思います。
人っ子一人いない深夜にひとり死ぬのは、「私」には耐えられませんでした。
青鬼赤鬼でも化け物でも、男でさえあれば精いっぱい媚びて、媚びながら死にたい、と。
まどろむ久須美にちょっかいをかけながら「私」は妄想します。
「私」は谷川で青鬼の虎の皮の褌を洗っていて、それを干すのを忘れて眠ってしまいます。
青鬼が「私」をゆさぶり起こすと、「私」はにっこりして青鬼に腕を差し出すのです。
坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」を読んだ読書感想
物語の書き出しで、主人公の「私」は「匂いって何だろう」と問いかけます。
自分は言葉を鼻で嗅ぐ、と。
嗅覚は脳の、感情や記憶をつかさどる部位と繋がっているので、それすなわち、「私」が理性ではなく感情だけで話を聞いていることを表し、彼女がどういう人物なのかを示唆しています。
実際話を読み進めていくと、「私」はその場の雰囲気や他人の意思にふわふわと流され、自ら動くときも本能や何となくの感情で動いています。
子供を自分の思い通りに動かそうとする、いわゆる「毒親」の母のせいで思考ができなくなっているのかとも思いましたが、どうも「私」自身の気質のようで、正直感情移入がしにくいです。
また「私」は今生きている現実が全てで、過去を悔やんでも未来に不安を抱いても仕方がないと考えています。
自身に期待も落胆もせず、それを相手にも求めません。
そのドライな態度は男にとって都合が良いものでしょうし、読んでいるこちらも妙な清々しささえ覚えます。
しかし「私」の生き方はやはり空虚的かつ刹那的で、読み終わった後は、真夏の昼下がりの気だるさのような感覚が残るのです。