著者:坂口安吾 2015年7月に青空文庫PODから出版
恋をしに行く(「女体」につゞく)の主要登場人物
谷村(たにむら)
主人公。妻・素子と親の遺産で食いつなぐ。絵を描くが趣味のレベル。
岡本(おかもと)
谷村の絵の先生。女癖が悪く毒舌。
信子(のぶこ)
岡本の弟子。出版社で蔵書の整理や目録を作る。異性を引き付ける天性の色気がある。
町田草骨(まちだそうこつ)
民族制度から日本史までを独自に研究。地方の旧家の出身だが金銭的な執着はない。
藤子(ふじこ)
谷村の良き相談相手。男女の垣根にこだわらない。
1分でわかる「恋をしに行く(「女体」につゞく)」のあらすじ
肉体関係にとらわれない恋に憧れていた谷村が気になっているのは、同じ師匠の下で絵を学んでいる若く奔放な女性・信子です。
若い頃から病弱で先が長くはないことを悟っている谷村は、信子に自分の気持ちを伝えに行こうとかと悩みます。
彼女がお世話になっているアマチュア学者の家まで訪ねて面会がかないますが、はっきりとした返事は受け取っていません。
何回かの訪問の後にようやく信子と結ばれた谷村でしたが、肉欲から解放されることはないのでした。
坂口安吾「恋をしに行く(「女体」につゞく)」の起承転結
【起】恋をしに行く(「女体」につゞく) のあらすじ①
谷村は岡本という画家のもとで絵を習っていますが(前話「女体」参照)、同期入門の生徒の中に信子という女性がいました。
ふたりが知り合ったのは今から6年ほど前のことで、自分とどこか似たような性質のある谷村に信子は高価な洋酒をごちそうしてくれます。
毎日のように変わる服装には相当な金額を注ぎ込んでいるようですが、彼女の給料はひと月で100円ほどしかありません。
信子の勤め先は構造社の企画部で、出版しているのは高価な画集や一部のコレクターをターゲットにした装丁本ばかりです。
60歳近い資産家の社長は信子のことを秘書という名目で手元に置いていて、事業の方は道楽でやっているようなものでしょう。
構造社で何冊かの本を出しているのが町田草骨という歴史家で、大学や学会などには所属せずに気の向くままに学問を続けていました。
草骨は妻とのあいだに子どもを授からなかったために、自宅に転がり込んできた信子のことを実の娘のようにかわいがっています。
京都まで探しに行ったベッドカバー、北京から取り寄せたアンティーク調の家具、職人に特注させたテーブルクロス。
自分の土地や畑を売却してまで信子の部屋を豪華に飾り立てている草骨のモットーは、「死ねばお金は使えない」だそうです。
信子の金づるが社長であれ草骨であれ、谷村にとっては構いません、前々から肉体的な交わりのない魂だけが燃えるような恋をしてみたいと考えていた谷村は、信子に自分の気持ちを告白をしに行くつもりです。
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【承】恋をしに行く(「女体」につゞく) のあらすじ②
健康面に不安がある谷村はここ数年は気温が低くなると外出する機会が減っていましたが、めずらしく12月の寒い朝に家を出ました。
本を探しに行くとは説明していましたが、妻の素子は明らかに不審そうにしていたために納得はしていないでしょう。
何年ぶりかに体いっぱいに吸い込む冬の外気は思いの外に爽快感があり、鼻と口元を覆っているマフラーを外してしまいたいほどです。
信子に会いに駅前までやって来た谷村でしたが、直前になって怖じ気づいてしまいいつもの散歩コースへと引き返します。
谷村が散歩の途中に時々立ち寄っているのは藤子という女性の家で、一時期は喫茶店の店員をやっていましたが今現在では株式仲買人の愛人になっているために働いていません。
伸びやかな肉体美で立ち振舞いにも色気がある女性ですが、谷村にとっては男同士でもためらうようなことも話し合える唯一の相手でした。
その道の大家と呼ばれるような芸術家、一代でひと財産を築いた実業家、江戸時代から続く名門の跡取り、誰もが知る歌舞伎の名優。
信子が生活費をせしめている相手は、いずれも中年から初老にかけての男性で相当の地位と財力があることを教えてくれます。
お金を巻き上げることも男をだますことも、信子にとっては計算ずくではなく本能に従った上での当然の行動だそうです。
藤子が言う通りに信子に他人を惑わす魔力のような力があるとするならば、命を奪われるのを覚悟で告白しに行かなければなりません。
【転】恋をしに行く(「女体」につゞく) のあらすじ③
町田家はそれなりの広さと部屋数がありますが、主人の草骨と妻が使っている寝室は実にシンプルな作りです。
立派なのは信子の個室として与えられた居間で、以前からあった輸入物の家具に加えてピアノや香水なども増えていました。
若い女性の部屋には似つかわしくない古風な本も100冊以上は積まれていて、それなりに仕事もしていて忙しいようです。
出し抜けに訪ねてきた谷村を町田夫妻に断りもなく自分の部屋に通した信子は、お手伝いさんに頼んで緑茶やフルーツを持ってきてもらいます。
運ばれてきたリンゴやみかんを信子は皮もむかずに口に入れますが、いつもより早起きをした谷村は食欲がありません。
たとえ空腹を感じていたとしても、女性を口説いている側に果物の皮を積み重ねておく訳にはいかないでしょう。
長ったらしい前置きや芝居のような雰囲気を演出するのが嫌いな谷村は、ストレートに胸のうちを打ち明けました。
信子という美しい風景にときめいていること、恋というよりも信仰のようなもの、この信仰のためならば殉教者となっても構わないこと。
しゃべりながらも自己嫌悪に陥っていく谷村は、自分自身の大げさな身ぶり手ぶりに苦笑をしてしまうほどです。
ようやく谷村の言葉が途切れた頃の信子の様子は、うっとりと放心しているようでもあり目をつむって何も聞いてないようでもあります。
いそいで告白の返事をくれる必要がないという別れぎわのひと言にも、ほほえみを浮かべて黙っているだけです。
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【結】恋をしに行く(「女体」につゞく) のあらすじ④
藤子は以前に短期間だけ岡本と師弟のような愛人のような関係を結んでいましたが、今ではスッパリと手を切っていました。
未練がましいのは岡本の方で、いつものように散歩の途中で藤子のところでひと休みをしていた谷村と鉢合わせをしてしまいます。
生まれついての妖婦、善悪の観念が抜け落ちた犯罪者、愛する心を持たない冷酷無情な機械、永遠に真実を言わない孤独者。
岡本は信子とも恋仲ではないかとのうわさが立っていましたが、彼女については呪いのような言葉を浴びせるだけです。
信子を口説くのは自爆するようなものという岡本の警告にも関わらず、再び谷村は信子のもとへと向かいました。
外では真冬の嵐が吹き荒れていましたが、部屋の中には中国の年代物の火鉢が赤々と燃えているために代謝がいい彼女には暑すぎるのでしょう。
顔中に火照りと汗を浮かべていた信子は窓を開け放って外の新鮮な空気を吸い込み、寒気に震えている谷村は火鉢の前に座り込んで手をかざし。
ふたりはお互いの熱気と冷気を交換し合うかのように、身に付けている服を脱いで抱き合い部屋中を転がり回ります。
若々しく健康的で未来への希望に満ちあふれた信子の裸体、やせ細って死期が迫っている谷村の老体。
ようやく信子から離れて床に散らばっていた衣服を拾い集めた谷村ですが、心の中にはむなしさしかありません。
男女をつなぐ見えない糸のようなものがこの世界にはあると信じている谷村は、それを見つけ出し「恋」と名付けるつもりです。
坂口安吾「恋をしに行く(「女体」につゞく)」を読んだ読書感想
「女体」では残りあとわずかになった人生を妻とともに生きることを決意していたはずの主人公・谷村が、本作では年がいもなく最後の恋に身を燃やしていました。
岡本先生がいまいち存在感が薄く活躍シーンも少なめですが、その分クセのあるキャラクターが用意されています。
新たに登場したヒロインの信子が鮮烈で、多くの男性が彼女のために私財を投げ打ってしまうのも無理はありません。
豊満な肉体に恵まれながらも性別にこだわらずに的確なアドバイスを送ってくれる、藤子のような脇役も魅力的ですね。
相変わらず体が弱くて優柔不断な谷村ですが、真冬の早朝にウォーキングに励むなど意外な一面もチラリと見えてきます。
心身ともに英気を取り戻してようやく意中の人の元に会いには行くものの、ミステリアスな笑みでスルリとかわされてしまうのがほろ苦いです。
ついには念願がかなってハッピーエンドと思いきや、まだまだ終わらない恋の旅へと繰り出していくようなラストも圧巻でした。