著者:坂口安吾 2015年8月に青空文庫PODから出版
女体の主要登場人物
谷村(たにむら)
主人公。親から譲られた財産があり働いていない。青春時代の大半を闘病に費やした。
素子(もとこ)
26歳の時にひとつ年上の谷村と結婚。献身的たが性欲が強い。
岡本(おかもと)
生活苦を糧に創作を続ける画家。快楽と官能を人生の目的と信じる。
大木(おおき)
強欲な故買屋。人情が分からない。
仁科(にしな)
谷村家の隣人。大学から役人へと手堅く進む。知識は豊富だが才能はない。
1分でわかる「女体」のあらすじ
無職の身の上で絵を習っている谷村は素子と10年以上連れ添っていますが、良くも悪くも愛情が強すぎるのが悩みの種です。
いい年をして自堕落な生活を続けている画家の岡本は、教え子の谷村ではなく素子に個人的な興味を抱きます。
借金の申し込みという理由で夫婦の家に上がり込んで素子と急接近をしますが、彼女からは一向に相手にされません。
隣近所から足しげく通ってくる青年・仁科に少しの疑惑を抱きつつも、谷村は余生を妻と静かに過ごすことを決めるのでした。
坂口安吾「女体」の起承転結
【起】女体 のあらすじ①
若い頃から欲望に忠実に生きてきた岡本は、50歳を過ぎても素行は落ち着かないままです。
岡本から絵を教わっている谷村は内心は苦々しく思っていましたが、頼まれるままにお金を貸していました。
ある時にたまたま虫の居所が悪かった谷村は、常日頃から抱えていた不平や不満を思いっきり岡本にぶつけてしまいます。
積もりに積もった借金のこと、だらしのない異性関係のこと、音信不通のままで長らく会っていないという子どものこと。
「理解されない天才」を自称する岡本ですが、谷村に言わせると画会から排除されたに過ぎません。
普段から虚勢を張っている岡本ですが、いざというときには何も言い返すことができずにうろたえて顔をゆがめたままです。
やり込められた岡本が逃げるように家から出ていく様子を黙って眺めていた素子は、夫の額の上に浮いた汗を拭いてあげました。
10代の頃からろく膜炎と脊椎カリエスに悩まされてきた谷村は、今でも年に数回ほど症状が重くなることがあります。
その度に数日のあいだを不眠不休で看病してくれる素子に対して、谷村は常に感謝の気持ちでいっぱいです。
その一方では肉体的にはまだまだ若く貪欲な素子から求められた時には、谷村はやせ細った体にムチを打って答えなければなりません。
年々勢いを増していく病魔に殺されるのが先か、一向に衰えることのない素子の情欲に殺されるのが先か。
わが身を燃やして明かりを灯すロウソクのように、谷村も自らの生命が着実に消えかかっていることを悟っていました。
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【承】女体 のあらすじ②
素子はもともと芸術に興味がある訳ではなく、展覧会に出品するつもりもなく夫の付き合いで絵の勉強をしているだけです。
社交的ではなくどちらかというと孤独を好み、ゆくゆくは高原の森の中や田園のほとりなど環境の良い場所に移り住むことを考えていました。
病弱な谷村と進んで結婚したのも介護に明け暮れる陰気な毎日に耐えているのも、素子の胸のうちに世捨て人のような性質があるからなのでしょう。
素子と谷村はごくまれに口論になることもありましたが、お互いにどんなに腹が立つ時でも決して本音ははき出しません。
素子がチクリと嫌みを言ってきた時には谷村がグッとこらえて、谷村が子どものように手が付けられなくなった時には素子が母親になり。
ふたりっきりの現実をいたわりつつ、原始的で自給自足のような生活をしながら一生を終えるつもりです。
しばらくのあいだ谷村家を訪れることのなかった岡本が、3月のある日に前触れもなくフラりとやって来ました。
岡本の妻は良家から嫁いできた人で、ダイヤリング指輪や真珠のネックレスなど高価な品ばかりを身に付けています。
その品物の中から7〜8点ほど無断で持ち出して大木という男に売り飛ばしてしまった岡本は、妻にばれて激しく責め立てられているそうです。
すべてを買い戻すためには1万5千円ほど必要、岡本があり金をかき集めて持ってきたのは3千円。
足りない分を一時的に立て替えてほしいという理不尽なお願いごとを、なぜだか素子に訴えかけていて谷村の方は見ようともしません。
【転】女体 のあらすじ③
脂ぎって好色そうな目、いかにも日曜画家といった風情のチョビひげ、ポツポツと小さな穴が空いた頬っぺた。
顔を付き合わせる度に生理的な嫌悪感を抱いてしまう素子でしたが、これまでにも岡本の愛人の面倒を見たことは数え切れません。
岡本とのあいだに子どもを産んだ後で家を追い出された者、衣食住に困って自殺を計った末に何とか一命を取り留めた者、慰謝料や子どもの養育費を請求したものの泣き寝入りした者。
彼女たちが自立して生きていけるように手元に引き取って、無事に就職できるまで面倒を見てあげたのは素子です。
妻に打ち明けるのは嫌、大木と直接的に話し合うのも嫌、月々に分けて少しずつ返済するのも嫌。
今回の件に関しても岡本は自分の非をまったく認めようとはせずに、すべての後始末を素子に丸投げしてきました。
亡くなった谷村の両親がいくらかのお金を残してくれたために夫婦は勤めに出ていませんが、決してぜいたく三昧ができるほどではありません。
差し出された3千円の包みを岡本にキッパリと突き返した素子は、今後は道徳的に正しいと判断したことしか手伝わないと宣言しました。
その場を立ち去る素子に向かって未練がましく左手を突き出した岡本は、ついには声を立てて泣き出してしまいます。
根っからの性格破綻者、どこまでも恥知らず、世の中からつま弾きにされた嫌われ者。
そんな岡本にひそかに心をひかれていて、ただひとりだけ彼のことを許す気持ちを持っているのが谷村です。
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【結】女体 のあらすじ④
谷村夫妻の近所に住んでいるのは仁科という物好きな男子大学生で、お世辞にも上手とは言えませんが趣味で絵を描いていました。
このご時世では入手しにくいポマードで整えられた髪の毛、外国製のライターや腕時計、ブランド品で統一されたネクタイから靴。
身だしなみこそ手入れが行き届いていますが、美術館で有名な絵画を鑑賞しても旅先で美しい風景を見ても特にこれといった感銘を受けません。
大学を卒業してから官庁に就職が決まった後も、相変わらず画集を買い集めたり美術史の本を読み漁っていました。
自信満々で完成させた作品を見せびらかしにやって来ては、延々と持論を展開しては谷村をウンザリさせています。
たまに谷村にからかわれたり反論された時に、仁科がこびるように救いの手を求める相手は10歳以上年下の素子です。
精神的には未熟ながらも健康そのものでエネルギーに満ちあふれている仁科、性的に淡泊な夫に対して物足りなさを感じているであろう素子。
先日の岡本の1件があってから体の調子がますます弱くなっていることを実感している谷村は、自分が死んだ時に素子がどこへ歩き去ってしまうのかは不安です。
その一方では何とか生きてこれたのは紛れもなく彼女のおかげで、ここまでの旅路への大きな感謝しかありません。
ささやかな日々の暮らし、ささやかな生命、ささやかな幸せ。
そのすべてに精一杯のいたわりと愛情を注いで、燃えるような恋心とともにこの世界から消えることを願うのでした。
坂口安吾「女体」を読んだ読書感想
道楽ざんまいな自称・天才画家の岡本と、病弱な生徒・谷村との間でオープニングから繰り広げられるバトルには笑わされました。
ふたりの男たちの泥仕合を止めることもなく、時おりミステリアスな視線を送ってくる素子も色っぽいですね。
何くれとなく夫の身の回りの世話をしてあげながらも、カラカラになるまで生気を吸い取ってしまうような貪欲さも秘めていて圧倒されます。
表面上は波風が立っていない夫婦の日常生活が、トラブルメーカーの岡本によってかき乱されていく後半の展開はまったく予想ができません。
理不尽な借金を申し込んできたかと思えば、意外なほど打たれ弱くいきなり涙を流してしまう岡本の浅ましさにはあきれるばかりです。
岡本の尻拭いばかりをさせられていてついには絶縁を言い渡す素子、はた迷惑のかたまりのような岡本を見捨てられない谷村。
ふたりのリアクションにも微妙な差が生じ始めていき、夫婦関係にヒビが入ってしまうのかとハラハラさせられました。
頭でっかちの若者まで乱入してくるものの、夫婦愛で締めくくるラストも美しいです。