押絵の奇跡の主要登場人物
井ノ口トシ子(いのぐちとしこ)
23歳。ピアノ教師。作中で〈私〉として手紙を書いている立場。
中村半次郎(なかむらはんじろう)
本名は菱田新太郎(ひしたしんたろう)。23歳の歌舞伎役者。作中で〈あなた〉として、手紙を受け取る立場。
中村半太夫(なかむらはんだゆう)
半次郎の父。東京で千両役者と呼ばれる歌舞伎役者。のちに中村珊玉(さんぎょく)と改名した。
母(はは)
トシ子の母。黒田藩お馬廻り五百石の家の娘。作中に名前は出てこない。
父(ちち)
24歳のとき、15歳だったトシ子の母と結婚して、婿養子に入った。作中に名前は出てこない。
1分でわかる「押絵の奇跡」のあらすじ
〈私〉の母は、九州の、黒田家の士分であった家に生まれました。
母はあるとき、東京からやってきた歌舞伎役者、中村半太夫の芝居を観て、それを押絵にします。
母が身ごもったのはちょうどその頃です。
やがて生まれた〈私〉は、半太夫にそっくりでした。
〈私〉が幼いころ、母の不義を疑った父は、母を斬り殺し、自分も切腹して果てます。
他家で成長した〈私〉は、中村半太夫の息子、中村半次郎が、自分の母にそっくりなことに驚きます。
これはどういうことなのか。
やはり、母が不義を働いていたのでしょうか……。
夢野久作「押絵の奇跡」の起承転結
【起】押絵の奇跡 のあらすじ①
二十三歳のしがない音楽教師の〈私〉は、同じく二十三歳の歌舞伎スター、中村半次郎と、運命の糸で結ばれています。
半次郎はきっと〈私〉にプロポーズするでしょう。
しかし、〈私〉はそれを断らなければなりません。
ある日のこと、音楽界で〈私〉がピアノを弾いているところへ、半次郎が色眼鏡をかけ変装して客席に入ってきました。
半次郎が色眼鏡をとって〈私〉を見たその顔は、母にそっくりでした。
〈私〉は失神するとともに喀血し、病院に運び込まれました。
半次郎が見舞いに来てくれました。
〈私〉は自分の運命を悲しみ、こっそりと病院を抜け出すと、九州まで行って、博多の櫛田神社を参拝しました。
そこの絵馬堂にかかげられた二枚の押絵の額縁に、別れを告げるためです。
一枚は、八犬伝の一節で、犬塚信乃ほかが描かれた押絵であり、もう一枚は、阿古屋(あこや)の琴責めの押絵です。
この二枚の押絵が、運命のすべてを知っています。
東京に戻った〈私〉は、再入院し、半次郎にあてて、ふたりの運命にまつわる手紙を書くことにしました。
始まりは、母のことからです。
母は、黒田藩のお馬廻り役五百石の家に生まれたひとり娘でした。
小さい時から美人で、手先が器用。
裁縫を得意としており、遊びに作った押絵の人形が評判をとって売れるほどでした。
母は、十五の歳に、二十四の父を婿に迎えました。
そして、十八になったとき、博多一の大金持ち、柴田忠兵衛から仕事を依頼されました。
東京の歌舞伎のスター、中村半太夫がやってきて、阿古屋の琴責めを演じるので、それを観て、演目の内容を押絵にしてほしい、というものでした。
忠兵衛はそれを娘にプレゼントするのだそうです。
公演を観に行った母は、それはみごとな押絵を作って納入しました。
すると、その押絵が人気を呼んで、あまりにもたくさんの人が柴田家に押し寄せたものですから、柴田忠兵衛はその押絵を額縁に納め、櫛田神社の絵馬堂に奉納したのでした。
母の評判は高まり、仕事の依頼が増えました。
しかしちょうどそのころ、母は〈私〉を身ごもったために、新しい仕事を断ることにしたのでした。
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【承】押絵の奇跡 のあらすじ②
母の妊娠は、祖父母に待ち望まれていたことでした。
父は母と寝床を分け、母の寝る部屋には、胎教のために、勇ましい絵をかかげました。
そうして、出産が近づくと、その昔、母の乳母だったオセキ婆さんを、家に泊まりこませました。
やがて、〈私〉の誕生です。
そのころ、父母と〈私〉のことをあてこすった手毬歌が流行りました。
家の近くでそんな歌を歌っている子守りがいると、父はキチガイのように叱りつけたものでした。
さて、当時のわが家の収入はというと、わずかばかりの作米と、父が近所の者に漢学を教えてもらう謝礼金、その他は、母が押絵を作ったり裁縫仕事をしてもらうお金でした。
ですから、〈私〉が生まれる前後は、収入が激減したものです。
が、〈私〉が生まれてしばらくすると、産後の肥立ちもそこそこに、母は針仕事を再開しました。
父は母の代わりに朝夕の買い物を引き受け、母を、家での仕事に専念させました。
また、仕事の依頼を、父がどんどん承諾して、母に押しつけていたようでした。
父は、そうやってお金を稼ぐのを楽しみにしていた節があります。
母はとても人間わざと思えぬほど、働きに働きました。
母が押絵の人形の顔を描くとき、決まって〈私〉を呼び、手本としていました。
「お前の顔は役者のようにきれいだから、お手本にしているのだよ」と母は言い、そのあと急に悲しげに泣いたものでした。
母の収入により、だいぶ家の造りが立派になったころ、大金持ちの柴田忠兵衛から、再び仕事の依頼がきました。
母が以前に作成した関羽と張飛の押絵があるのですが、そのような勇ましい押絵を新たに作ってもらい、櫛田神社に奉納して、阿古屋の額と並べたい、というのです。
そのための錦絵を、東京から大量に取り寄せてくれました。
そのなかに八犬伝の、犬塚信乃と、犬飼現八と、取り方三人を描いた絵がありました。
犬塚信乃を演じているのは中村珊玉です。
それは、改名したかつての中村半太夫です。
母はその絵をもとに押絵を作ることに決めました。
〈私〉は、なぜ母がその絵を選んだのか、理由がわかったような気がしました。
やがて押絵は完成し、櫛田神社に奉納されると、大変な評判をとりました。
父は、ちょっと様子を見てこよう、とひとりで出かけていきました。
【転】押絵の奇跡 のあらすじ③
櫛田神社から帰ってきた父は、カンカンに怒っていました。
〈私〉の顔を覗き込み、わなないて、ひっぱたきます。
驚いた母が駆けつけてくると、父は「お前は中村半太夫と不義をしただろう」と責めたてます。
押絵の犬塚信乃の顔が中村半太夫にそっくりであり、〈私〉の顔も中村半太夫にそっくりであることを、絵馬の見物人たちの噂で聞いてきたのでした。
母はジタバタしませんでした。
不義をした覚えはないが、これ以上のお仕えはしかねる、と神々しく返答します。
父は刀で母を斬りました。
〈私〉が母に駈け寄ると、父は〈私〉ごと母を刀で貫きました。
そのあと、父は切腹して果てたそうです。
母は心臓を貫かれて死に、〈私〉は一命をとりとめました。
その後、柴田忠兵衛さんにお世話になって成長した〈私〉でしたが、不義の子と後ろ指さされるつらさと、中村珊玉こと半太夫に、母との不義を確かめたいという思いから、東京へ行くことにしました。
忠兵衛さんの紹介により、音楽学校の講師をしている岡沢さんの家にお世話になりました。
そうしてピアノを習っているうちに、一年はあっという間にすぎていきました。
ある日、岡沢さんから、歌舞伎見物につれていってあげよう、と言われました。
もうそのころは、中村珊玉さんは亡くなっていました。
その息子で、〈私〉と同い年の中村半次郎が、追善興行で、阿古屋の琴責めを演じる予定です。
雑誌に中村半次郎の談話が載っています。
それによると、半次郎の父、珊玉は、阿古屋の衣装を、細かな部分にいたるまでこれ、とぴったりと決めていたそうです。
それは、母が押絵で作った阿古屋の衣装そのものでした。
〈私〉は推測します、母は兄と妹の双子を産んだのではないか、そうして、オセキ婆さんが手配して、兄を中村家へやったのではないか、と。
その夜から、〈私〉は中村半次郎を兄と決め、恋焦がれたのでした。
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【結】押絵の奇跡 のあらすじ④
翌日、〈私〉は歌舞伎を観につれていってもらいましたが、体調が悪く、よく観ることができませんでした。
やがて夏となり、〈私〉はたまたま八犬伝の本を読みました。
そこには、伏姫が、犬の八つ房と体の関係を持たないまま、八人の剣士を産んだことが書かれていました。
八犬伝は作り話ですが、もしかすると世の中には、本当に体の関係なしで妊娠するということがあるのではないか。
そう思った〈私〉は、図書館へ行って、いろいろの本を読みました。
すると、「法医学夜話」という西洋の書物を翻訳した本のなかに、不思議な事例が書かれていたのです。
ひとつは、ある白人の国の王妃が、黒人の赤ん坊を出産したというもの。
ヒポクラテスという医師が言うには、王妃の部屋に、先代の王の身代わりになって死んだ黒人奴隷の肖像画がかかっており、王妃はそれを見ていたために黒人の子を産んだのだ、とのことです。
また、もうひとつの事例は、イギリスの田舎で、ある男爵が迎えた妻が、黒髪の子供を出産したというもの。
しかし、この男爵家には代々黒髪の者はいないので、夫は妻を不義の罪で糾弾しました。
実は、この妻は、すでに亡くなっている黒髪の美男子の肖像画に恋しており、そのために黒髪の赤ん坊が産まれた、ということでした。
〈私〉はこの本を読んで、母が不義をしていない可能性があることがわかりました。
〈私〉の母と中村珊玉は一目で恋に落ちた、そのため母は、珊玉に似た〈私〉を産み、珊玉の妻は〈私〉の母に似た、半次郎を産むことになった、という可能性です。
はたして〈私〉と半次郎は、不義により生まれた双子の兄妹なのでしょうか。
それとも、母と珊玉が恋をして、肉体関係がないままに産んだ、運命の男女なのでしょうか。
家に伝わる遺伝性の病気のために、〈私〉の命はもう長くはないでしょう。
〈私〉は、これまでのことを長い手紙にしたため、中村半次郎に送って、判断を仰ごうと思っています。
夢野久作「押絵の奇跡」を読んだ読書感想
少し長めの中編小説といったところですが、非常に筋立てがうまくて、引っ張られるようにすいすいと読めました。
まず、出だしがうまい。
「〈私〉とあなたは運命の人、あなたは〈私〉にプロポーズするに違いない」といったことが書いてあります。
ここで、ははあ、なるほど、と思うわけです、現代で言えば「あたし、ジャニーズの○○クンと運命の人なのよ。
繋がっているのよ」と妄想するような、頭の変な女の話なんだろう、と。
ところが、次に、「しかし〈私〉はそのプロポーズを受けるわけにはいかない」となっています。
なんだ? どういうことなんだ? と疑問を持ち、次々にページをめくっていくことになります。
物語は、九州の旧家の話にもどるのですが、どういうことなんだ? という疑問がありますし、〈私〉の母の話もていねいに描かれていて、少しもたいくつしません。
そうして、ある日、〈私〉の家族は破局にいたるわけですが、その場面のなんと美しいことでしょう。
〈私〉の母の最期は、武家の娘の気高さを、みごとに身体で表して亡くなっていくのです。
さて、そんなさまざまのエピソードが語られていって、ラストはリドルストーリー、つまり、ふたつの解決が示されます。
もうこの先長くはない主人公が、解決を得られないために、切ない恋心をどうにもできない状態で、物語が終わります。
すると、読んでいるこちらとしても、胸が切なくなるのでした。