富嶽百景の主要登場人物
私(わたし)
本作の主人公。井伏鱒二を訪ね、御坂峠にある天下茶屋に向かう。
井伏鱒二(いぶせますじ)
天下茶屋にて仕事をしている。「私」の見合いの世話をする。
甲府の娘さん(こうふのむすめさん)
「私」と出会い、結婚する。
新田(にった)
25歳の温厚な青年。吉田という町の郵便局で働いている。「私」をたずねて天下茶屋へやって来る。
天下茶屋の娘さん(てんがちゃやのむすめさん)
天下茶屋のおかみの娘。15歳。
1分でわかる「富嶽百景」のあらすじ
昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で、かばん一つ提げて旅に出た「私」は、師の井伏鱒二が滞在する、甲州御坂峠の天下茶屋に身を寄せました。
そこは嫌でも向き合わなければならないほど、富士がよく見える場所でした。
身を寄せた当初は、あまりに「おあつらえ向き」だとして、富士にあまり良い印象を抱かなかった「私」でしたが、旅先での出会いや自己との対話を通し、少しずつ富士に対する思いが変わっていきます。
最後、甲州を去る前に見た富士は、これまで見ていた富士とは違ったものとなっていました。
太宰治「富嶽百景」の起承転結
【起】富嶽百景 のあらすじ①
昭和13年の初秋、「わたし」は思いを新たにする覚悟で山梨県へ旅に出ました。
そして、天下茶店で仕事をしているという井伏鱒二氏をたずねます。
そこは、昔から富士三景の一つに数えられる場所でした。
いやでも毎日富士山と真正面から向き合っていなければならない状況を、「わたし」は好まないばかりか、軽蔑さえしました。
あまりにおあつらえ向きの富士であったためです。
天下茶屋へ到着してから2、3日経ったある日、「わたし」は井伏氏と三ツ峠を登りました。
三ツ峠は急坂で這うようにしてよじ登り、頂上に達するまでに1時間ほどかかります。
井伏氏は登山服を着ていましたが、「わたし」は登山服の持ち合わせはなく、天下茶屋で借りたどてら姿で、むさくるしい恰好でした。
明らかに変な恰好である「私」に対し、井伏氏はさすがに少し気の毒そうな顔をしたものの「男は、しかし、身なりなんか気にしない方がいい」と小声でつぶやいて「わたし」を労ってくれました。
しかし、苦労しながら登頂したにもかかわらず、あいにく、富士山は霧で見えませんでした。
パノラマ台にある茶屋で熱いお茶を飲んでいると、茶店の老婆が気の毒がり、もう少したったら霧も晴れると思うこと、晴れていたら富士はすぐそこにくっきりと見えることを教えてくれます。
そして、茶店の奥から、富士山の大きい写真を持ちだし、崖の上に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、この通りに見えるのだと懸命に説明してくれました。
その光景を見た「わたし」は、笑いながら「いい富士を見た」と感じ、霧が深いことを残念に思いませんでした。
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【承】富嶽百景 のあらすじ②
それから数日後、井伏氏に連れられて甲府に向かった「わたし」は、ある娘さんとお見合いをします。
当初、「わたし」は娘さんの顔を見ることができませんでした。
しかし、井伏氏が「おや、富士」と部屋にかかった富士山の写真を見上げたのにつられて、「わたし」もからだを捻じ曲げて自分の後ろに飾られていた写真を見上げます。
そうして、捻じ曲げたからだをゆっくり戻すとき、初めて娘さんを見ることができました。
その瞬間、「決めた。
多少の困難があっても、この人と結婚したい」と思いました。
富士は「わたし」に婚約を決意するきっかけとなりました。
その後、吉田で働く新田という青年が私をたずねてきました。
彼は他にもさまざまな青年を連れてやって来ます。
新田は、私を吉田に連れて行ったりしました。
私と青年たちは、文学や女性について語り合いました。
そして、吉田に宿泊した夜に見た富士は、月光を受けて青く透き通るように見え、素敵でした。
ため息がでるような青い富士を見ると「わたし」は自分が良い男のように感じられて、富士を背に夜の街をずいぶん歩きました。
それは後から思い返すと阿呆に感じられるような思い出で、「わたし」は富士に化かされたと思いました。
吉田から帰ると、茶店でおかみさんと十五の娘さんは「わたし」が不潔なことをしてきたのではないかと勘ぐっている様子でした。
そこで「わたし」は二人に吉田の夜について話をして、弁解しました。
次の日の朝、「わたし」は興奮する娘さんの声で目を覚まします。
娘さんの指の先には山頂が雪で真っ白に光り輝く富士がありました。
はっとして「わたし」は「御坂の富士も、ばかにできないぞ」と思いました。
【転】富嶽百景 のあらすじ③
あるとき、「わたし」は山を歩き回って月見草の種を集め、天下茶屋の裏口にまきました。
私は、富士には月見草がよく似合うと思っているのです。
それから「わたし」は、河口村から郵便物を受け取り、バスに乗って茶屋へ帰っていました。
そこで、ある老婆が「おや、月見草」と言います。
月見草は小さくとも路傍でけなげにすっくと立ち、黄金色に輝き、目の前の大きな富士と立派に相対峙していました。
その姿を見た「わたし」は、富士には月見草がよく似合うと再確認しました。
10月に入って、「わたし」の縁談は進みます。
しかし、「わたし」の仕事は思うように進みません。
天下茶屋の娘さんは、「お客さん(「わたし」のこと)が書いた原稿を番号順にするのが楽しみなのに、仕事をしてくれないからそれができない」と言いました。
「わたし」はそんな娘さんの純粋な応援をありがたく感じ、同時に彼女を美しいと思いました。
10月末になると、観光客は減って茶屋はさびれてしまいます。
茶屋のおかみさんが買い物に出ることもあり、娘さんと「わたし」が茶屋に取り残されることもあります。
あるとき、退屈した「わたし」が暇を持て余して外をぶらぶら歩きまわり、茶屋に帰ると、娘さんは怖がって泣いていました。
それ以来、「わたし」私は娘さんが1人のときは茶屋から出なくなりました。
茶屋に客が来たときは、「わたし」は2階からわざわざ降りて行ってゆっくりお茶を飲んだり、煙草をふかし、娘さんを守るようにしました。
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【結】富嶽百景 のあらすじ④
ある日、花嫁姿の客が車に乗って休憩しに来ました。
彼女は余裕たっぷりな様子で富士をゆっくりと眺めます。
すると、花嫁は大口を開けてあくびをしました。
「わたし」と茶屋の娘さんは、結婚相手を待たせている状況で、自動車から降りて富士を眺めあくびまでする花嫁の神経の図太さに驚きました。
寒さが身に染みるころ、「わたし」は茶店の人たちの親切に心から感謝しつつも、日に日に雪を深くかぶる雪の姿を眺め、また、冬木立に接しては、これ以上この峠で寒気に辛抱していても無意味に感じられ、ついに山を降りることに決めました。
そうして山を下る前日、東京の華やかな娘2人に「写真を取ってほしい」と頼まれます。
「わたし」は機械に詳しくなく、写真の趣味は皆無のため、華やかな娘さんたちから、カメラで写真を取るというハイカラな用事を頼まれて狼狽しました。
しかし、むさくるしい格好をしていても頼まれたことで、ウキウキした気持ちもあり、平静を装い、カメラを受け取り、シャッターの切り方を尋ねてからカメラのレンズを覗きます。
すると、そこには、真ん中に大きな富士山、その下にけしの花が2つあり、おそろいの赤いコートを着た娘がまじめな顔をして寄り添っていました。
その姿を見た私はおかしくなり、カメラを持つ手が震えてどうにもならなくなりました。
そうして「富士山、さようなら、お世話になりました」と思いながら、娘たちを外して富士山だけをカメラに収めました。
太宰治「富嶽百景」を読んだ読書感想
私がこの小説で好きな点は3つあります。
まず一つ目は、主人公の富士山に対する思いの変化がうまく描かれている点です。
最初はいかにもという感じの景色や絶景の王道という雰囲気の富士に対して、ネガティブな印象を持っていた主人公が、物語が進展し、富士周辺の人々との話や体験を通じて、いつのまにか富士山に対してポジティブな印象に変わっています。
最後には「富士山との写真をとってほしい」と頼まれた主人公が、写真に富士山だけ収めるほどとなっている点が面白いと思います。
二点目は、甲府に婚約者がいるにもかかわらず、宿泊している茶屋の娘さんとの仲が次第に深まっていく様子が描かれている点です。
茶屋の娘さんとは歳も離れており、恋愛相手とも取れますし、兄妹とも取れるように思います。
このような微妙な距離感は自分の経験とも重なり、甘酸っぱい青春が思い出されます。
三点目は、「太宰治」らしいユーモアにあふれた文体が随所に見られる点です。
例えば三ツ峠の頂上での「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた」という描写に、思わず笑ってしまいます。
短編小説でありながら、この肩の力が抜けるようなユーモアあふれる文体が楽しめるのも本作の魅力の一つだと感じます。