著者:谷崎潤一郎 1931年4月に改造社から出版
卍の主要登場人物
柿内園子(かきうちそのこ)
ヒロイン。上流階級向けの美術学校に通う。服装も態度も派手できらびやか。
柿内孝太郎(かきうちこうたろう)
園子の夫。学者肌の弁護士。人付き合いが悪くぶっきらぼう。
徳光光子(とくみつみつこ)
園子のクラスメート。容姿が端麗でひがまれやすい。
綿貫栄次郎(わたぬきえいじろう)
園子の元婚約者。色白で俳優のような美男子だが性的な欠陥を持つ。
1分でわかる「卍」のあらすじ
軽い気持ちから美術学校に入学して絵を習い始めた柿内園子、クラスの中でもひときわ美しく目をひく徳光光子。
園子が光子と恋人であるかのように振る舞ったのは、デマを流されて困っていた彼女を助けたかったからです。
いつしか心から光子を愛するようになっていきますが、園子とかつて結婚を誓い合った綿貫栄次郎によってふたりの関係が明るみに出ます。
ひそかに光子と浮気をしていた夫の孝太郎を交えて3人で心中を決行しますが、園子だけが生き残るのでした。
谷崎潤一郎「卍」の起承転結
【起】卍 のあらすじ①
柿内園子の夫・幸太郎は帝国大学の法科を優秀な成績で卒業したために、試験を受けずに弁護士の資格を取得しました。
大阪市中央区今橋にあるビルに事務所を借りて開業しましたが、いつまでたっても学生の気分が抜けないためか客足は伸び悩んでいます。
それでも朝になると律義に決まった時間に出勤していくために、園子の方は日中ずっと西宮の自宅にいて時間と暇を持てあます毎日です。
堺筋の電車通りにある女子技芸学校は裁縫から文学までとさまざまなコースに分かれていますが、特に難しい入学試験はありません。
以前にも習い事で日本画をやっていたことがある園子は、孝太郎も快く賛成してくれたために通ってみることにしました。
4月の半ばくらいからスタートする日本画コースではまず裸体画のデッサンがあり、課題は右手に柳の枝を持った観音様です。
園子の提出した作品は洋画を専攻している徳光光子とそっくりだったために、ふたりが同性愛の関係ではないかとの疑惑が持ち上がります。
光子の実家が船場にある裕福なラシャ問屋であること、校長から寄付金を頼まれたもののお断りをしたこと、逆恨みした校長から根も葉もないうわさ話を流されたこと。
お昼休みに休憩室でばったりと会った光子から詳しい事情を聞いているうちに、園子の胸のうちには迷惑というよりも怒りの感情の方が湧いてきます。
教育家でありながら卑劣な校長を懲らしめてやるために、園子は光子と恋人同士であるかのように演じるつもりです。
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【承】卍 のあらすじ②
天王寺公園の近所にあるレストランでランチ、道頓堀に開場したばかりの松竹座で映画鑑賞、奈良の若草山でハイキング。
周りに見せつけるかのように園子と光子はデートを繰り返し、もともと教育よりも経営に熱心な校長も教室に顔を出さなくなり嫌がらせもピタリと止みました。
園子は光子のことを親しみを込めて「光ちゃん」、光子は園子のことを憧れを込めて「姉ちゃん。」
本来の目的は達成したためにもはや恋人のふりをする必要もありませんが、ふたりの絆はますます強くなるばかりです。
学校も休みが多くなり柿内家の寝室にまで光子を招き入れて、彼女をモデルに絵を描いている園子のことが孝太郎としては面白くありません。
少しずつ夫婦の中が険悪になっていた6月3日の午後9時過ぎ、ミナミの繁華街にある料理屋にいる光子から電話がかかってきました。
「料理屋」といっても訳ありの男女がひと目を忍んで利用する場所で、光子は内風呂に入っているうちに着物と財布を盗まれてしまい外に出られません。
着替えといくらかのお金を持って園子が駆け付けると、2階の個室には27〜28歳くらいの色の白い男性が待っています。
名前は綿貫栄次郎、住まいは船場の徳光家のすぐ近く、光子と愛し合うようになったのは去年の暮れ頃から、結婚の約束までしたものの春先の騒ぎで破談。
同じ恋愛でも同性の愛と異性の愛とはまるっきり違うというのが綿貫の持論で、園子との仲も了承した上でこれからも光子との関係を続けていくそうです。
【転】卍 のあらすじ③
それ以来3人で食事をしてみたり洋風劇場で芝居見物に行ったりと打ち解けるように努力はしてはいましたが、心からしっくりとはいきません。
半月ほど空梅雨と日照りが続いた7月の下旬、ふたりだけで聞いてほしいことがあると園子は綿貫から呼び出されました。
北浜の通りを南に歩いた先にある甘味処「梅園」でぜんざいを食べながら、光子の父親が資産家との縁談を進めていることを打ち明けます。
光子がまったく知らない男の物になるよりかは、多少なりとも面識があり親近感もある綿貫と一緒になってくれた方が都合がいいでしょう。
利害関係が一致したふたりは義理のきょうだいとして同盟を組むことになり、綿貫が用意したのは万年筆で細かく書き込まれた誓約書です。
姉・園子は弟の綿貫が光子と結婚できるように最大限の努力する、結婚後は園子と光子が姉妹として愛情を分け合い、綿貫が離婚した際には園子も光子と関わりを絶ち、園子が捨てられた時には綿貫も婚姻を破棄する。
光子のおなかの中には自分の赤ちゃんがいると自慢気に話す綿貫でしたが、幼少期におたふく風邪が原因でこう丸炎にかかった綿貫には生殖能力がありません。
ルックスに恵まれた綿貫は今までも数多くの女性たちと交際してきましたが、彼女たちから結婚を迫られる度に行方をくらませていました。
綿貫の本性に気が付いた園子は何とか光子との縁を切らせようとしますが、すでに例の誓約書に血液で割り印を押して手書きのサインしてしまった後です。
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【結】卍 のあらすじ④
園子が持っている誓約書の片割れはタンスにカギをかけて隠していますが、綿貫は自分のものを今橋の事務所に送り付けてきました。
孝太郎からすると妻が見知らぬ男と「きょうだい」になっていたことなど寝耳に水で、しばらくの間は光子と会うことを禁じられてしまいます。
こっそりと家を抜け出した園子が光子と合流した場所は、堺市から南西に5キロほど離れた浜寺にある徳光家の別荘です。
ドイツ製のタブレット錠剤「バイエル」は解熱・鎮痛に一定の効果がありますが、1箱を一気に服用すれば命の保証はありません。
園子は孝太郎に、光子は両親へ宛てた書き置きをそれぞれ用意すると震える手を握り合いながら薬を飲みました。
別荘に着く前に朝食を取っていた光子は飲み込んだものをすぐに吐き出しましたが、空腹状態だった園子の体は薬を完全に吸収してしまいます。
意識がもうろうとしていた園子が聞いたのは、その場に駆け付けてきた孝太郎がヒソヒソと光子に話しかける声です。
新婚の頃から園子とは肌が合わなかったこと、園子のように外の世界に物足りなさを埋める相手を求めていたこと、光子と愛し合うようになって始めて恋する心を知ったこと。
明日になれば綿貫は誓約書のコピーを新聞社にもリークするつもりで、光子は船場の家から一歩も出られなくなるでしょう。
春に学校で描いた観音様の絵を枕元に飾って3人はあらためてバイエルを飲み直しますが、ただひとり息を吹き返したのが園子です。
園子はこの事件の真相を知り合いの先生の助けを借りてまとめ上げ、小説のようなかたちで世に送り出すことを決意するのでした。
谷崎潤一郎「卍」を読んだ読書感想
経済的には何ひとつ不自由ない生活を送りながらも、精神的には決して満たされることのない柿内園子。
その妖艶さで周囲に穏やかならぬ波風を巻き起こしつつも、自分の恋愛を何よりも大切に突き進んでいく徳光光子。
ふたりの奔放かつ魅力的な女主人公が、友情をこえた熱い感情で結ばれていく異色のラブストーリーにドキドキです。
頭でっかちのエリート弁護士・孝太郎や、見かけによらず嫉妬心の強い綿貫栄次郎など男性キャラクターの存在感が薄れてしまうのも無理はありません。
園子と光子が世の中から中傷バッシングを浴びたり、無理解によって引き裂かれていくシーンには胸が痛みました。
性的マイノリティやジェンダー・フリーといった言葉が社会に浸透する、半世紀以上前に本作品が執筆されていることを念頭に置かなければなりません。
肉体的な性別にとらわれることもなくお互いへの思いを貫き通した彼女たちの生き方からは、今の時代の読者が読んでも勇気をもらえるでしょう。