著者:志賀直哉 2009年5月に岩波書店から出版
城崎にての主要登場人物
志賀直哉(私
温泉療養の作者登場人物はひとりなので100文字以上は書けません例文を埋めておきます
メロス(めろす)
本作の主人公。妹を想い、悪を嫌う心優しき男。
セリヌンティウス(せりぬんてぃうす)
メロスの親友。メロスの人質となる。
ディオニス(でぃおにす)
暴君の王。人を信用しない性格で、メロスを死刑にしようとする。
妹(いもうと)
メロスの妹。メロスのたった一人の家族。近日中に結婚式を控えておりメロスの出席を楽しみにしている。
1分でわかる「城崎にて」のあらすじ
志賀直哉の温泉街(城崎)での療養生活をリアルに描き上げた「白樺派」の最高傑作だと思っています。
脊椎カリエス発症の恐怖に怯えながらの日常生活に楽しみを見出す工夫に大きく共感できます。
生と死との背中合わせを「蜂・鼠・イモリ」の死によって自分事に置き換える作家としての職業病には感服します。
昨日まで元気だった蜂のあっけない死について客観的に考察する視点は素晴らしいと思いました。
死生観を自然界の「動」と「静」のコントラストを死骸に見出すことでこの作品に吸い込まれます。
志賀直哉「城崎にて」の起承転結
【起】城崎にて のあらすじ①
私(作者)は山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をしました。
怪我の養生のために一人で但馬の城の崎温泉へ出かけました。
背中の傷が「脊椎カリエス」にならなければ致命傷になることはないと医者に言われました。
2〜3年で発症しなければ後は心配はいらないとのことです。
用心は必要だからと言われて城崎に養生に行きました。
このとき事故の後遺症なのか頭はまだはっきりしませんでした。
しかし物忘れは酷くなりました。
気分は近年になく落ちついた気持ちでした。
確か稲の穫りが始まる季節で気候もよかったからだと思います。
毎日、ひとりなので誰も話し相手はなく読むか書くか、またぼんやり部屋の前の椅子に腰かけて山を見るくらいでした。
退屈ときは散歩することもありました。
散歩するコースは町から少し上によい場所を見つけました。
夕食前はこの路を歩いてきます。
夕方は淋しい秋の山峡で気分が沈むことが多かったと思います。
私は怪我のことを考えました。
ひとつ間違えば今ごろは青山で仰向けに倒れていたと思います。
酷い顔の傷も背中の傷もできただろう。
祖父と母の死体も一緒だと想いました。
これは淋しくも怖さもなく「いつか」はこのようになるからです。
今まで「いつか」を考たとはありませんでした。
しかし今はそれが本当に「いつか」知れない気がします。
私は死ぬはずが助かった!なぜか私が死ななかった!私にはやる仕事があるのだ!中学生のとき「ロード・クライブ」という本にクライブがそう思うことで励まされると書いていました。
実は私もクライブと同じ危ない出来事を感じてみたいと思っていました。
しかし意外と私は冷静で死に対する親しみを感じました。
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【承】城崎にて のあらすじ②
私の部屋は二階で隣のない静かな座敷でした。
読み書きに疲れるとよく縁の椅子でくつろぐこともありました。
脇が玄関の屋根で家のつなぎ羽目になっていました。
その羽目の中に蜂の巣があったようです。
天気がよいと虎斑の大きな蜂が朝から暮れまで毎日忙しそうに飛んでいました。
蜂は羽目のあわいからすり抜けて出ると玄関の屋根に下ります。
私は退屈なとき欄干から蜂の出入りを眺めていました。
ある朝、私は偶然にも一匹の蜂の死骸を玄関の屋根で見つけました。
それは足を腹につけて触角はたれ下がっていました。
大きな蜂の死骸だったのでこの特徴は分かりやすかった。
ほかの蜂にはこの死骸とは関係がない普段の日常がありました。
当たり前のことですが忙しく働いている蜂は生きているという感じがしました。
逆に朝も昼も夕方も同じ場所で全く動かず転がり続ける蜂を見ていると死んだ蜂と感じました。
ほかの蜂が全て巣に戻った日暮れに冷たい瓦の上の死骸を見ると淋く静かな物であることを感じました。
動的な働き蜂と静なる死骸の違いから淋しく感じたのかもしれません。
夜に大雨が降りましたが朝には晴れて木の葉も地面も屋根もきれいに洗われていました。
そこには蜂の死骸はありませでした。
今も巣の蜂たちは元気に働いていますが、死んだ蜂は雨どいを伝って泥に塗れて地面へ流し出されたのでしょう。
死骸は次の変化があるまでそこにじっとしています。
せっかちに働いていた蜂が全く動かなくなると私はなぜかその静かさに親しみを感じました。
【転】城崎にて のあらすじ③
私の前から蜂の死骸が流されて間もない時のことでした。
私は日本海などが見える東山公園へ行くつもりで宿を出ました。
「一の湯」の小川は通りの真ん中を流れて円山川へ流れます。
ある所まで来ると橋や岸に人が川の中の物を見ながら騒いでいました。
それは大きな鼠を川へ投げ込んだのを見ているのでした。
鼠は一生懸命に泳いで逃げようとします。
鼠の首に七寸ばかりの魚串が刺さっていました。
頭の上に三寸ほど咽喉の下に三寸ほど魚串が出ています。
鼠は石垣に上がろうとします。
子どもが二、三人と車夫が鼠に向けて石を投げていました。
なかなか当たりません。
石はカチッカチッと石垣に当たって跳ね返って見物人は大声で笑っています。
鼠は石垣の間にようやく前足をかけましたが穴に入ろうとすると魚串がすぐに支えます。
鼠はどうにかして助かろうとしています。
顔の表情は人にわかりませんが動きの表情にそれが一生懸命であることがよくわかりました。
鼠はどこかへ逃げ込めば助かると思って長い串を刺されたまままた川の真ん中の方へ泳ぎ出ます。
子どもや車夫はますます面白がって石を投げました。
私は鼠の最期を見る気がしませんでした。
鼠が殺される運命を担いながら全力を尽くして逃げ回っている様子が妙に頭に付きました。
私は淋しい嫌な気持ちになり、静けさの前にあの苦しみが恐ろしくなりました。
死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまで動騒は恐ろしい。
自殺を知らない動物は死ぬまであの努力を続けなければならない。
私にあの鼠のようなことが起こったら自分はどうするか?私はやはり鼠と同じような努力をしてしまうのか?私の怪我の場合は同じことを思わずにいられませんでした。
私はいまできるだけのことをしておこう。
私は自身で病院を決めた。
その病院に行く方法を指定した。
もし医者が留守でもすぐ手術の用意ができないと困るので電話を先にかけてもらうことなどを頼みました。
半分意識を失った状態でいちばん重要なことだけよく頭の働いたことは私でも後から不思議に思いました。
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【結】城崎にて のあらすじ④
そんなことがあったある夕方に町から小川に沿って一人歩いて行きました。
物がすべて冷えて物静かさがかえってなんとなく私をそわそわさせました。
大きな桑の木が路傍に見えました。
桑の枝の一つの葉だけがヒラヒラと同じリズムで動いていました。
風もなく静寂の中でその葉だけがいつまでもヒラヒラとせわしく動くのが見えました。
私は不思議に思いながら多少怖い気もしましたが好奇心もありました。
私はその下へ行ってしばらく見上げました。
すると風が吹いてきます。
その動く葉は動かなくなりました。
原因は解りました。
何かこういう自分の経験で知っていたと思いました。
だんだんと薄暗くなったのでもう引き返かえそうと思いました。
私は何気なく脇の流れを見ました。
向こう側の斜めに水から出ている半畳敷きほどの石に黒い小さいものが見えました。
イモリです。
濡れていていい色をしていました。
体から滴れた水が黒く乾いた石へ一寸ほど流れています。
私はイモリを何気なくしゃがんで見ていました。
私はイモリを驚かして水へ入れようと思いました。
不器用に体を振りながら歩く姿が想像できます。
私はしゃがんだまま脇の小鞠ほどの石を投げました。
私は別にイモリを狙っていませんでした。
狙って当たることなどは全く考えませんでした。
石はコツと流れに落ちました。
石の音と同時にイモリは四寸ほど横へ跳んだように見えました。
イモリは尻尾を反らして高く上げていました。
自分はどうしたのかと思いました。
最初は石が当たったと思いませんでした。
イモリの反らした尾が自然に下りました。
すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて前へついていた両の前足の指が内へ折れ込むとイモリは力なく前へのめってしまいました。
もう動きません。
イモリは死んでしまったのです。
私は酷い事をしたと思いました。
虫はよく殺す自分ですが殺す気が全くないのに殺してしまった私に妙な嫌な気がしました。
私のしたことは偶然でした。
イモリにとっては全く不意な死でしょう。
私はしばらくそこにしゃがんでいました。
イモリと自分だけになったような気分がしました。
イモリの身に自分がなった気持ちになりました。
かわいそうにと想うと同時に生き物の淋しさを同時に感じました。
三週間ほどでここを去りました。
それから、もう三年以上になります。
自分は脊椎カリエスにならずに助かりました。
志賀直哉「城崎にて」を読んだ読書感想
志賀直哉の温泉街(城崎)での療養生活をリアルに描き上げた「白樺派」の最高傑作だと思っています。
脊椎カリエス発症の恐怖に怯えながらの日常生活に楽しみを見出す工夫に大きく共感できます。
生と死との背中合わせを「蜂・鼠・イモリ」の死によって自分事に置き換える作家としての職業病には感服します。
昨日まで元気だった蜂のあっけない死について客観的に考察する視点は素晴らしいと思いました。
死生観を自然界の「動」と「静」のコントラストを死骸に見出すことでこの作品に吸い込まれます。
鼠の死に向うプロセスは人間の小動物に対する残酷さも表現しています。
鼠が死ぬ姿までは見続けることができない怪我人の志賀直哉のメンタルの揺れ共感できます。
鼠は死ぬことは分からないまま生存本能を発揮することを教えられました。
「動物は自殺することができない」この着目点を教えられたことはこの作品を読んだ意味を感じます。
鼠の虐待と生きる本能を目撃した志賀直哉の自分の怪我に対する考え方から手術をした場合と想定した行動に結びついています。
哺乳類の死を目の当たりにしたことで人間の死への恐怖を感じ取ることは志賀直哉でなくても共感できると思いました。
最後のイモリの偶然の死は人間の生活環境でも日常的にあり得ることです。
現在でも事故や事件で人間が死ぬということは日常茶飯事です。
これこそこの作品の肝の部分ではないでしょうか?偶然の死は一見理不尽なのかも知れませんが、この「偶然の死」のトリガーが志賀直哉本人となってしまったのです。
「偶然の死」の当事者となってしまったことは人間生活の中では加害者になったということを意味します。
それもふざけた行動でイモリの命を奪ってしまったことに対する懺悔感も受け取れます。
殺すつもりはなかったが殺してしまったという理不尽さ現在も起こっています。
最後に「偶然の死」の経験を作品内に示しているからこそこの作品に重厚感をもたらすと思いました。